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歴史

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プレ・ヒスパニック期(スペインによる征服以前の時代)

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マジョリカの鉢
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マジョリカの鉢
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陶器
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彫刻入りの骨で作られた笛

パナマの最初の住民は紀元前1万年まで遡ります。スペイン人の到着以前、いくつかのプレ・ヒスパニック民族グループがあり、その工芸品が、シティオ・バリレス(チリキ県高地)、シティオ・コンテ(コクレ県)、シティオ・パナマ・ビエホ(パナマ県)などの地域で発見されています。

発見された工芸品の中で、最も価値のあるものは、崇拝の目的で使われた金の「ワカ」です。他に、「モノリス」という一枚岩に動物や人が彫刻されたものや、動物と幾何学模様のプレ・ヒスパニック期独特の杯、「オカリナ」と呼ばれている陶製の粘土で作られた古い器具なども挙げられます。これらのものは、レイナ・トレス・デ・アラウス プレ・コロンビア芸術博物館をはじめ、いくつかの博物館にて展示されています。

プレ・ヒスパニック期に、パナマに住んでいた主要な民族グループは、マヤ族、カリブ族、チブチャ族です。植民地の支配において、これらの初期のパナマ人が経験した苦脳が、粘土や石や革や織物に表現されています。民族グループの伝統および文化は、世代から世代へ口頭で受け継がれ、現在ではパナマの主要な3つの民族グループであるグナ族、ノベ・ブグレ族、エンベラ・ウォウナーン族にその独特の伝統・文化が見受けられます。

スペイン人による征服と植民地時代

ロドリゴ・ガルバン・デ・バスティーダスは、1501年パナマ地峡に到達した最初のスペイン人です。スペイン人のパナマ地峡の征服に対する大いなる努力にもかかわらず、先住民による抵抗と、風土病により、支配の試みは幾度も阻まれました。1510年までには、スペイン人はダリエン県のカリブ海側に位置するサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンを創立し、最初のスペイン町の誕生となりました。そこから、金銀および栄光を目指しながら、スペイン人が中南米の征服を進め、先住民にキリスト教を広めるといった、新世界征服の足がかりとなりました。

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首都パナマ・シティーにあるバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの記念像
サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンを始点にバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが、ダリエン県の領土征服のため、探検を繰り返し、その間に豊かな王国の存在と南方に位置するもうひとつの海洋について、先住民から情報を得ました。熱帯地帯や山などを横断した後、バルボアは、1513年9月25 日に、後ほど「太平洋」の名で知られることになる「南の海」を発見し、新しい海洋を発見した最初のスペイン人およびヨーロッパ人になりました。

「南の海」の発見は、1519年8月15日にペドロ・アリアス・アビラ(通称:ペドラリアス)によるパナマ・シティーの創立につながりました。こうして、パナマ・シティーはアメリカ大陸の太平洋側で創立された初めての都市となり、南米インカ帝国征服のための戦略的な基地となったほか、他の中米地域の征服計画および探検のための拠点の役割も果たしていました。パナマ・シティーの創立後に、スペイン人が太平洋側のパナマ・シティーに移住したことから、サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンの重要性は失われ、1510年に設立された別の町「ノンブレ・デ・ディオス」が、カリブ海側のスペイン船の寄港地になりました。その後、ノンブレ・デ・ディオスは、イギリス人海賊フランシス・ドレイクによって1596年に破壊され、スペイン人がやむを得ずその翌年に「ポルトベロ」という近い位置にあった港に貿易湾の機能を移しました。ポルトベロでは、かつてスペイン王国最も重要な商業市が開かれ、その場でスペインと植民地からの物品の交換が行われました。

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1673年に再建されたパナマ・シティーの旧市街地区、「カスコ・ビエホ」
写真の提供:パナマ観光庁(ATP)
こうして、パナマの地理的な位置の利便性を活かし、パナマはスペイン王国の拠点となり、ペルーの莫大な金と財宝をはじめ、その他のアメリカ大陸の太平洋側の物品輸出拠点の役割を果していました。その結果、パナマはイギリス人のヘンリー・モーガンなどの海賊の的になりました。モーガンが、 1671年にパナマ・シティーを破壊し、1673年に、パナマ・シティーは、元の位置から7.5キロ北西のパナマ旧市街地(カスコ・ビエホ)に再建されました。

スペインからの独立と大コロンビアとの統一

18世紀の最後の四半世紀、ヨーロッパとイギリスの植民地における政変により、アメリカ革命やフランス革命などに反映された言論の自由の考えが普及しました。こうして、遠くに離れている中央集権スペイン王国に対する、これらの「自由」という新しい理想は、スペインの植民地に広まりました。その結果、クリオーリョ(アメリカ大陸で生まれたスペイン人の子孫)がシモン・ボリバルと他の指導者に導かれ、独立戦争を起しました。

この動きを制圧できるパナマ駐留のスペイン軍はわずかであったため、パナマは戦わずして、1821年11月28日、独立宣言に至りました。パナマのクリオーリョは、スペイン軍との平和な解決に至り、パナマ側の費用負担によりスペインの軍を本国へ送り返しました。

スペインから独立した直後、パナマは国民からの高い名声を得ていたシモン・ボリバルの指導下、ヌエバ・グラナダ(コロンビア)、ベネズエラ、およびエクアドルで構成された大コロンビアに加わることを自発的に決めました。しかしながら、1830年には、内部対立により大コロンビアが崩壊し、加盟国は、それぞれ独自の道を歩むことになりました。パナマも、自らの道を歩もうとしていましたが、結局、地元指導者の決断で、大コロンビアと統合し続けることになりました。(大コロンビアは、グラナダ共和国に改名しました)。

コロンビアとの統合後、10年間、頻発していた政治的混乱がコロンビア政府の安定性に影響を及ぼし、更にパナマの安定性と繁栄により、パナマは何度も分離を試みました。しかし、コロンビアの軍事的優位により、分離運動はあきらめざるを得ませんでした。

それにもかかわらず、1855年、フスト・アロセメナの指揮の下で、パナマは地峡連邦になり、国際関係、防衛および特定の基本的な政府の機能を除き、かなりの自治権を獲得しました。その後、コロンビアの県に自治権を与えることを定めるリオ・ネグロ憲法が、ボゴタ市の中央政府によって廃止され、中央集権主義政府が復活したことにより地峡連邦の試みは、1886年に幕を閉じました。

パナマのコロンビアとの統合時代は、いくつかの重要な出来事がありました。

  • アメリカ大陸諸国サミット(アンフィックティオニック・サミット - 1826年): シモン・ボリバルが、元植民王国のスペインが改めて失地を取り戻すという意図を、新しくスペインから独立した国々に勧告しました。又、ボリバルの名言:「もしも世界が首都を選ばなければならないなら、パナマはその立派な運命として選ばれるでしょう。なぜなら、地球の真ん中に位置し、一方の海岸はアジアに向け、そして、もう一方の海岸はアフリカとヨーロッパに向いているという地理的好位置を誇るからです。」
  • パナマ鉄道建設(1850年): カリフォルニアで起きていたゴールド・ラッシュ時代で、発見された金を迅速でより安全な輸送を提供する目的で、地峡を横断するパナマ鉄道が建設され、それが太平洋と大西洋を結んだ最初の鉄道となりました。
  • フランス人によるパナマ運河建設の試み(1880~1886年): フランス人による試みは、適切な技術不足、風土病、および財政面の問題など、いくつかの原因により失敗に終わりました。
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フェルディナン・ドゥ・レセップス:フランスによるパナマ運河建設の先駆者
提供:パナマ運河庁(ACP)
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両海洋を結ぶパナマ鉄道
提供:パナマ観光庁(ATP)

1899年から1902年にかけて、パナマはコロンビアの自由党と保守党の間の政権争いによって引き起こされた別の内戦に巻き込まれることとなりました。その結果、1,320日間に10万人もの人がコロンビア内で命を落とした「1000日戦争」と言われた紛争が起こり、パナマはまさに絶体絶命の経済状況に置かれました。そして1902年11月21日、米国政府の仲介をもって、軍艦ウィスコンシン船上にて平和協定が調印されました。

内戦終結後、フランス人が建設に手をつけたパナマ運河を完成すれば、国に繁栄をもたらすことが想定され、地理的好位置を誇るパナマ地峡における運河建設についてのコロンビアと合衆国の間の条約を交わす望みがありました。しかし、1903年の半ば、コロンビア議会は、その条約を拒否したため、同年11月3 日、パナマはコロンビアから分離することを決断し、米国政府の助けをもって、パナマ自らの将来の道を定めました。

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フゲイラード・カット(1913年)
提供:パナマ運河庁(ACP)
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ミラフローレス閘門 (1912年)
提供:パナマ運河庁(ACP)

共和制時代

11月3日のコロンビアからの独立後、新政権はフェリペ・ブノー・バリージャを特命全権大使に任命し、両大洋を結ぶ運河建設のための条約の交渉にワシントンへ向かわせました。ブノー・バリージャは、数年前に建設を既に始め、アメリカ合衆国政府へ運河建設の権利譲渡を取り決めていたフランスの企業の代表でした。
さらに彼は、パナマの独立のためにアメリカの政府支援を得る貢献をしました。

新政府からブノー・バリージャに出された指示によると、彼は他の3人の代表者がワシントンに到着するのを待ち、共に条約の条件について話し合うはずでした。しかし、彼は一人でさっさとアメリカ政府と話を進め、1903年11月18日、パナマの代表派遣団が到着する数時間前に、ヘイ=ブノー・バリージャ条約に調印をしてしまいました。よって、実際ヘイ=ブノー・バリージャ条約は、パナマ人が署名したものではありませんでした。

その時の合意の条件は、以前の条約にてコロンビアと交渉をしたものよりも不利なものであったため、パナマ新政府からは強く反対されました。しかし、パナマのリーダーらが直面していたその困難な状況からも、もはや受け入れるほかありませんでした。両大洋を結ぶ運河建設のための新しい条約により、パナマ地峡の中心にアメリカ合衆国の支配管理地域が作られました。このことからも、パナマ運河建設の一番初期の段階から、次のパナマ政府はその地域の統治権の取り返し、もしくは少なくとも、徐々に条約の条件の改善していく努力をしました。しかし、それは、世界の大きな勢力のひとつと向かい合いながらの、パナマ人の国の威厳を取り戻すための長い戦いとなりました。

両国から死者をも出す遺憾な紛争を乗り越え、74年間もの要請の後、1977年、パナマとアメリカ合衆国は新しい条約(トリホス・カーター条約)と共に、パナマ運河の永久中立に関する条約に調印をしました。新しい条約では、前のヘイ=ブノー・バリージャ条約を撤廃し、パナマ運河地帯をパナマの国民に返還する道のりを整えました。1999年12月31日正午、パナマ運河の全ての統治権がパナマに返還され、96年間にも及ぶパナマ国内におけるアメリカの干渉が終了しました。

コロンビアからの独立後、パナマは大統領府、国会、司法の3つを柱に共和国として発展していきました。大統領と議員は5年毎に絶対多数にて選出されます。

共和制初めの40年間、パナマの政界は、コロンビア政治の名残から、自由党と保守党の対立で占められていました。その時代ずっと、ベリサリオ・ポラスの指揮のもと、制度やインフラに大きな変化がもたらされました。彼は、伝統的な自由主義のシンボル的な存在であり、大統領にも3回選出されました。また、この時代、保守派の衰退も起こりました。

しかし、1930年代以降、パナマ運河地帯における問題や、パナマ国民の日常に生活におけるアメリカの影響から起きたナショナリズムの思想が、政界に根付き始めました。それにより、“Action Comunal” (コミュニティー アクション)のような運動が生まれ、スペイン語の保護や、パナマの土着文化の価値を重んじることを、パナマの人々の思想にしみ込ませようとしました。この運動は、後に3度パナマの大統領に選出されることになるアルヌルフォ・アリアス・マドリードにより率いられました。今までとは違う、短期間のアリアスの政治により、土地改革や女性の選挙権、社会保険庁の創設、専門職の育成、その他多くの革命的な変化が同時にもたらされ、社会的、制度的に重要な遺産が残されました。

60年代初頭の大統領就任期間に影響するいくつかの政治的暴動が起きましたが、形式的な民主主義は1968年、選出されたアルヌルフォ・アリアス大統領を若い幹部が転覆させ、独裁権を奪ったことで阻止されました。軍隊による追放の後、国家保安隊の司令官、故オマール・トリホスが、いわゆるレボルーショナリー・プロセスのリーダーになりました。クーデターは、アリアス大統領が作った政治の階級制度によって、国家保安隊の高官自身の役職が脅かされたことによって起こりました。その階級制度は、国家保安隊とアリアス大統領間の長年の憎悪によりさらにひどいものになっていました。

トリホス時代(1968-1981年)、パナマは社会的、経済的に重要な変化を経験しました。そのなかには、女性や黒人、原住民の政治・経済への関与、低所得層学生の高等教育への機会向上、保健機関の改善、労働者の権利をより容認した労働規則の改善、産業における優遇措置、さらにパナマ国際金融センターの設置も含まれました。しかし、トリホス政権が最も国に貢献したものは、先述のパナマ運河地域の権利返還へ導いたトリホス・カーター条約の交渉でした。

謎の飛行機事故でトリホス将軍が死去した後、引き続き危機が起こり、マヌエル・アントニオ・ノリエガ将軍が国家保安隊の実権を握りました。1985年、反ノリエガ派であるウゴ・スパダフォラの首の切断された死体がパナマとコスタリカの国境にて発見され、政府がその非をとがめられた頃、ノリエガ政権は2つの政治的危機に苦しみました。しかし、ノリエガ政権の滅亡は、1987年彼のいとこであるロベルト・ディアス・エレーラ大佐の暴露により加速しました。というのも、彼はノリエガを、スパダフォラの死、マネーロンダリング、人身売買、その他の罪で告訴したのです。ディアス・エレーラ大佐の暴露は、ノリエガ将軍が国家保安隊の支配力をトップに持ってこられなかった失敗に対する反発であると言われています。

1985年から1989年まで続いたノリエガ政権でしたが、1989年12月20日、アメリカがパナマへ侵攻し、ノリエガ将軍をマネーロンダリングその他の罪で逮捕・起訴したことで終止符が打たれました。

1990年から現在にかけ、パナマ共和国は民主主義の復活を遂げ、主要な伝統政党と、その関連政党が、平和に政権交代を行い、堅固な政治基盤を築いてきました。

2006年10月22日、パナマ国民がパナマ運河拡張に賛成の意を示したことが、その大きなインフラのプロジェクトや旅行ブームと合わせて、パナマをさらなる発展へと導いてくれるでしょう。

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トリホス・カーター条約(1977)
提供:パナマ運河庁(ACP)
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1999年12月31日: 米国管理からパナマ政府へのパナマ運河返還
提供:パナマ運河庁(ACP)
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(2007年9月3日): パナマ運河拡張工事の着工式での
マルティン・トリホス・エスピノ パナマ共和国大統領による演説
写真の提供:パナマ共和国外務省

情報源(参考文献)
Dominio y Sociedad en el Panama Colombiano, Alfredo Figueroa Navarro, 1982.
Historia de Panama, Ernesto J. Castillero, 1989.
Historia de Panama y sus Protagonistas, Jorge Conte Porras y Eduardo E. Castillero L., 1998
El Panama Hispano (1501-1821), Celestino Andres Arauz y Patricia Pizzurno, 1991.